近畿日本鉄道を題材にM&Aを考える (10) 京都線と志摩線

Kintetsu_30000_Old_Ver昭和39年10月1日と昭和45年3月14日は近鉄特急を語る上で重要な日付となりました。昭和39年10月1日は、東海道新幹線の開業により名阪間の乗客が東海道新幹線にシフトすることになったからです。これは従来の主力商品である名阪特急に到達時間と運転本数の競争力を喪失させる事態に陥ったからです。近鉄特急の主力商品を新幹線と連携して、奈良大和路、吉野、伊勢志摩といった観光地へ誘導する方策に転換するきっかけとなりました。昭和45年3月14日は日本万国博覧会の開催により、大阪にやってきた観光客を第二の万博会場として伊勢志摩方面へ誘導する施策をとることになります。

観光地へ誘導するための結節点は大阪、京都、名古屋の東海道新幹線の各駅です。このうち大阪の上本町ターミナルは新幹線の駅から離れていますが、京都と名古屋のターミナルは新幹線ホーム直下です。大阪と名古屋のターミナルは大阪電気軌道の正当な後継企業である関西急行鉄道によって建設されますが、京都のターミナルは近鉄系でもあり京阪系でもあった奈良電気鉄道によって建設されます。また、鳥羽から賢島までの区間は志摩電気鉄道によって建設されますが、志摩電気鉄道は戦時統合により三重交通に吸収されます。

三重交通の吸収はともかく、奈良電気鉄道の吸収は一筋縄ではいかない状態でした。奈良電気鉄道は近鉄系でもあり、京阪系でもあったため、昭和30年代に、近鉄及び京阪がそれぞれ奈良電気鉄道を子会社化する動き、つまり自社の路線に組み込む動きをすることになりました。そもそも奈良電気鉄道は、設立の経緯から京阪電気鉄道と近畿日本鉄道(設立当初は大阪電気軌道)がほぼ同数の株式を保有する会社であり、建設の暁には京阪線と近鉄線に相互乗り入れする計画で設立されたものです。

奈良電気鉄道の経営状況が悪化したことにともなって京阪電気鉄道と近畿日本鉄道が当時の関西電力太田垣士郎会長の斡旋のもとに経営再建協議を続けたものの、太田垣会長による斡旋案を当時の佐伯勇社長は拒否します。太田垣会長による斡旋案は路線二分割出会ったため京都から奈良への一体運行を奈良電気鉄道設立当初より行っていた近畿日本鉄道は承服できないということでした。ことここに至って株式買収合戦を行い、昭和36年9月に近畿日本鉄道が過半数の株式を保有するにいたり、京阪電気鉄道がその保有する株式全部を売却する事により、晴れて近畿日本鉄道京都線の誕生となりました。と一言で書いていますが、この買収合戦のドラマをうかがい知ることはできません。ただ、近鉄京都線成立の結果、東海道新幹線の停車駅である大阪、京都、名古屋から奈良大和路、吉野、伊勢志摩方面への誘導が可能となったことは、近鉄特急の運転網に大きく貢献し、近畿日本鉄道の運賃収入に多大なる影響を与えることとなりました。ちなみに、近鉄特急の特急料金収入は、近畿日本鉄道の営業キロの7割を占める閑散路線を維持するための財源をもたらすと言われており、近畿日本鉄道の経営に貢献しています。

日本の民営鉄道の発展を見ると、もともと都市間連絡で開業した路線、参詣地をつなぐ路線、不動産開発を伴う路線とあります。近畿日本鉄道は、当初大阪と奈良をつなぐインターアーバンとして開業し、その後畝傍御領や伊勢神宮と言った参詣地をつなぐ路線、奈良学園前地域の開発とすべての要素を伴います。しかし、これらを実現すための宇治山田線建設のための買収、名古屋進出のための買収、京都への進出のための買収、伊勢志摩地域への乗り入れのための合併と、M&Aによって規模を拡大した我が国民営鉄道における稀有な存在です。

最後に、近畿日本鉄道を取り上げた理由ですが、私が近畿日本鉄道のファンであることが一番です。また、M&Aによって規模を拡大させた例として取り上げるのに適切であるという判断もあったからです。M&Aという手法は最近では中小企業にも門戸が広がったこともありM&Aを取り上げさせていただきました。

主要参考文献

本コラムの記述には以下の書物を参考とさせていただきました。

『近畿日本鉄道100年のあゆみ』 平成22年 近畿日本鉄道編

近畿日本鉄道ホームページ

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